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予備士官出身の艦長

予備員制度は明治17年に始まり、明治19年の初採用以下多くの予備士官が採用されました。初期は商船学校出身者ばかりでした。のちに学生出身の多くの士官が大戦中を中心に採用され、多くの戦没者をだしたことはご承知の通りかと思います。

ただ予備士官はあくまで”予備”であり、正規の士官ではないため指揮権など多くの点で冷遇されていた面もありました。そのため指揮官となるには多くのハードルを越えなければいけなく、正規の士官になるのが一番確実でした。明治初期には13名の正規士官が誕生しており、その中から、眞野少将、北野少将の2人の将官が誕生しています。その後しばらく転官はできませんでしたが、昭和9年からまた転官が可能となりました。その結果207名の転官者がいます。昭和以後で最高位はタラワで戦死した石原薫大佐です。石原大佐も所属は755空で、転官者の多くは航空関係の勤務となっていました。生存者では陸攻隊の巌谷二三男少佐が著作もあり、有名でしょう。

一方、艦艇関係では、大戦後半は中小の艦艇の航海長など部門長には多くの予備士官が登用されていました。また海防艦などの小艦艇の長にも多くの予備士官がなっています。”予備士官たる”大佐に2人なっていますが、その2人も海防艦長でした。潜水艦長も寺本巌中佐(転官者)などがなっています。では”軍艦”長となった人物は?北野少将が鎮遠その他複数の軍艦の長となっています。また眞野少将も香取などの艦長をつとめています。ただ、いずれも転官者でした。

 では予備士官ではどうでしょう?基本的に無理なはずですが、一人います。松村総一郎中佐(予備士官)です。東京商船学校を大正9年に卒業し、中佐まで累進してきた人物です。大戦初期は聖川丸航海長をつとめていましたが、千鳥の艇長となり、昭和19年6月に八十島の艦長となっています。八十島は元中華民国巡洋艦の平海を拿捕・修復した船で、高角砲を主兵装とする2500t程度の艦です。大きさ的には駆逐艦程度ですが、昭和19年9月に二等巡洋艦に類別変更となり、立派な”軍艦”となりました。こうして予備士官たる軍艦長が誕生しました。しかし11月には比島方面で撃沈され、2ヶ月程度で特殊な状態はなくなってしまいました。ちなみに松村中佐は生還され、海防艦伊唐の艦長などを勤め終戦まで存命しています。


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